輸入件の躁鬱

しかし一番驚いたのは、

『一般流通にものらない、ネット販売もない、社員が自ら持って回った北海道内の数店舗での販売だけで、数万枚を売り上げた』

ということ。

では次は全国展開!?北海道発、全国制覇!?

おそらく、東京の資本なりメディアなりがきちんと形をつくり、システムに乗っけていけば、それなりの商品になりうるのだろう。しかし、それによって失われるものもあるはずだ、とスタッフの方は言う。

ローカルなものがグローバルに展開することで、売り手と買い手のあいだの『距離』が変わり、結果、作り手・売り手・買い手すべてを覆う『多幸感』が失われる。ナイーブな言い方をすればそういうことだ。

特に今回の輸入権CCCDを巡る議論における、『躁』な論調と『鬱』な気分の蔓延を目にすると、これはアーチストとディストリビューターと消費者とのあいだの『距離』が生み出した、音楽(コンテンツ)そのものへ降り掛かった不幸なのだという気がしてくる。

『現場』は、システム化された『流通』に不信をいだき、しかしそれに依存することなくては仕事すらない状況下で、アーチストであるという自意識を肥大させることで自己を保つ。
『流通』は個々人の、システムに対する無力と、アーチストではないという劣等感に苛まれながらも、スポンサーとしての虎の威を、自らの権威とすり替えることで自意識を保つ。
そして『顧客』は、パッケージ化された流通製品という形態を通されることで、その背後のすべてに関わる人間に対する想像力を奪われ、コンテンツは単に「モノ」として消費される。結果、『安く買えなくなるので、著作権は悪だ!』みたいな思考停止。