webと紙メディア
しかし!
この記事をリライトされた編集者のことを考えてみました。
彼(彼女かもしれませんがとりあえず)の意図は、その記事の配置により、ある程度推察できると思います。
つまり、「自己責任を問う声次々」という記事の直後に、発言の当該部分を引用することで、「問う声」に対する反論として、パウエル発言を際立たせたかったわけです。
【本筋部分と「自己責任」部分に絞った記事として書き分けられた】という説明も、それを裏付けます。
ところが、この「意図」は、webにおいては逆の効果を生んでしまったのです。すなわち当該部分の削除。
webのコンテンツ編集者と、紙面(誌面と書くのが正解のような気がしますが、「紙」の一文字がうまく問題を象徴していそうなのであえてこの文字を押し通します)編集者のあいだには、説明を聞けば回答できる程度の緊密な距離はあるはずです(互いの仕事のことは判っている、という意味で)。にもかかわらず、紙面編集者の「意図」は、「速報性を重んじている」という理由でwebには反映されない。
毎日膨大な記事が飛び交う大新聞のことであり、そのような差異は些末なことなのでしょう。お互いに、出来うる限り、相手の媒体の特性を理解しつつ、その意図するところを最大限伝えるべく、それぞれの媒体で努力をされていることとは思います。
しかしながら、やはり新聞は「紙」なのです。
見出しの大きさ、記事の配置、罫線の一本一本、編集という仕事は、その目に見える要素全てを用いて「新聞」というメッセージを体現することなのです。
然るに
プロの言論人や作家や学者などをのぞく、発言の媒体を持ち得ない一般の人々、その人たちは多く、ネットワークを介して、有り体に言うならwebで発言をします。
web依存も甚だしいと思いますが、しかし私を含めネットワーカーは、紙の新聞を購読しない傾向があると思います。
少なくとも、「○○新聞によれば」といったたぐいのクリッピングは、紙面からの転載ではなく、新聞・ニュースサイトからの「コピペ」もしくはURLの記載です。
さて、私はwebの仕事をしていて、紙媒体や電波媒体の人とご一緒する機会も多いのですが、そのときにしばしば感じるのは、「この人たちにとって、webという媒体で情報に接する人たちは眼中にないのだ」とう感覚です。
確かに、わざわざネットに日記やBlogを公開し、新聞記事を(勝手に!)クリッピング、引用、はては加工転用無断借用までしては、あーだこーだと言っているような人たちは、おそらく日本中で数万人程度しかいないのではないでしょうか。
何百万部を発行する新聞、何千万人を相手にする電波媒体にしてみれば、その数はわずかでしょう。世の中には、テレビや新聞を見て、刹那的に一喜一憂する人が大多数で、わざわざそれを文字にし、誰にだか向かって書き留める人は厳然たるマイノリティなのだ!フハッ!
といいながらも強引に教訓を導くとすれば、そこに「既存媒体・web」の感情的な二項対立を生み出してはならない、それにつきるのではないかと思うわけです。
一連のバッシング報道や、政府高官の発言は、世論を誘導し、かつまた誘導された世論に悪乗りしているものだ、という指摘があります。
ここでいう世論は、新橋でニュースのインタビューを受けるサラリーマンの意見でもなければ、新聞社の行ったアンケート結果でもありません。
まちがいなくそれは「ネットに横行するカキコ」のことです。
漠然とした「雰囲気」でしかなかったかつてのそれと異なり、はっきりと形として見える文字が、その存在を強固なものにしているのが、今回の「世論」です。
一面、これは「既存の媒体」や「政治家」が、「web」の存在をはっきりと意識し積極的に利用した、初めてのケースとして、好意的にとらえることも出来るかもしれません。
しかし注意したいのは、今回「web」が「既存の媒体」や「政治家」から認知されたのは、その「カキコ」が悪意に満ちていたからです。
「悪乗り」という言葉通り、それは「悪意に満ちた行為」に「無批判で便乗する」行為だったと言えます。であるからこそ、「既存の媒体」や「政治家」は、「web」に対してはっきりとそれが悪とみなしていることは想像に難くありません(であるか、「悪」でないカキコは無視している)。
極端な文系偏重かつ国際感覚に乏しい「既存の媒体」や「政治家」は、ネットにコンプレックスを持っています。きっと。
もちろん「雰囲気」に呑まれやすいネットワーカーたちだって、「既存の媒体」や「政治家」のことが大嫌いです。それはまた、ビンボーだったりなんやかや、満たされない鬱憤のなせる技です。
その両者の「悪意」というか「不満」というかが、共に補完するような形でふくれあがり、両者にとって共に異物であり、コンプレックスの対象になりうる人たち(「国際感覚にすぐれ」「お金持ち」)をバッシングして憂さをはらそうとしている。
しかし、両者は決して相容れないので、「悪意」は解消されることなく、「憎悪」ばかりが膨らんでいく。そんな状況が今のネットをとりまいていては、せっかく膨らみかけた、まっとうな「個人の自由な発言の場」としてのネットの良さまでもが摘み取られてしまう。
これはネットのみならず、そういう「場」を持ち得なかった日本という国の未来に対しても、大変不幸なことなのではないだろうか。
その為には、「既存の媒体」や「政治家」に優しくネットを解きほぐし、導いてあげる人の存在が大切になってくるのだと思う。
「既存の媒体」や「政治家」が権威を傘にきるのではなく、サービス業としてユーザと接する場としてのネットを構築することが、社会的な「善」となっていかないといけないのだと思います。
でまあ、ガンバレ、既存媒体企業のweb担当者よ(含む俺)!ってそれがオチかよ!