あまりにも天気がよかったので、ネットからもテレビからも離れていたこの週末の日本の、すくなくとも自分の目の届く範囲はいたって平和で、それは日本に住む人であればほとんどがそうであったと思う。

目の届かないところで起こった、テレビの中の出来事にいくら感銘を受けようと感応しようと、それは頭の中の理念であるから、当事者の絶対的な体験の強度は持ち得ない。それが語ることのジレンマにも、沈黙することの後ろめたさにもなる。

ところで『責任』という言葉をすごく目にするのだが、この言葉を見るたび、度々引用してしまって恐縮だが、友人のK.T.氏が言っていることが思い出される。

テロ組織をかくまう国もあれば、いまだに全体主義的独裁のなかで核開発を行う国もある。こうした状況下でいかにして安全を守るか、という課題に先進国が直面させられているのは確かな事実で、「世界経営」ということに無関心ではいられないわけです。各国が自由独立に存在していて、他国に無関心でいられるような状況では残念ながらない、それがグローバル化ということの意味だと思います。そして、その課題にある程度の責任感をもって取り組んでいるのは、やはりアメリカだけです。そのことは認める必要があると思います。

http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/america/01.html

他方、おそらくは70年代以降、中流家庭に育った子供達であれば多かれ少なかれ、
『個人(善)>組織(悪)』という観念が刷り込まれてきたと思う。それは戦中の全体主義への反省かもしれないし、戦後教育の成果かもしれない。ただその結果、この子供達が中枢となった組織のモラルは著しく低下しているわけだ。(「社畜」という言葉は自虐でもあると同時に、組織のモラルへ無関心であるという意思表示でもある。)
政治がまた、その組織員である個人へ「無関心」であるのは、このことの裏返しに他ならない。この状況は「無関心」な個々人が「望んだ」結果でもある。のだ。

この国においては、責任が問われるのは「個人」か「アメリカ」なのだ。言ってしまえばその選択肢は。

では、個人は、この望んだ状況下で、どのような責任を果すのか?

俺は、目の届く範囲で全力でモラリストであることしかないと思うのです。社会にコミットするための最小限の、自分が参加するユニットの質を高めていく努力を惜しまないことしかない。なんと言っても、いまや自由奔放な『個』を、保護してくれる『組織』はないのだから、それをもういちど作るため、少しづつでも身の回りに責任を果たし、それを押し広げていかなくてはならない。

キッツイなあ。でもそれが大人だろうが。ネットで無責任に『自己責任』『自己責任』とわめいて、発散してる場合ではないだろうよ。ちがうか。