烏賊

烏賊の眼球は人間と同程度の性能を持っている、となにかで読んだことがある。
視神経の構造とか、なんというのか光を感じる細胞の数とかが人間の眼球と同数くらいあって、なるほど添えられていた断面比較図を見ても、両者にさしたる違いはないように思われた。
ところが不思議なのは、烏賊にはその高性能な眼球からインプットされた大量の視覚情報を処理しうるだけの脳組織がないのだという。
彼らには何故それほど高機能な眼球が付いているのか?その価値を自ら活用し得ないというのに?
そこで書物の著者は、このように夢想する。
もしかしたら、烏賊とは、海中に無数に放たれた監視カメラのような存在ではないのだろうか。彼らが目にしたものは、なんらかの方法で情報として転送され、人間の想像もつかない超越した存在(例えば、海そのものの意思のようなもの)に集約されているのではないか。その存在は常に烏賊=監視カメラを通し、海中で起こるありとあらゆる事項を把握し、コントロールし続けているのではないだろうか・・・
いささか突飛な発想だとは思うが、この話を読んで以来、テレビの海洋もので悠々と泳いでいる姿であるとか、魚屋の店先で妙につやつやびんびんしている姿であるとか、あるいはネットでたまに目にする『巨大烏賊捕獲』のニュース画像で、もはや観念したかのように巨大な肢体をぐったりさせているときも、しかしいつ何時でもしっかりと見開らかれている眼球の黒光りした闇を覗き込むと、そこに完全に人とは相容れない意思のようなものを感じて背筋が寒くなったりもする。

『ロンリー・ハーツ・キラー』(星野智幸ISBN:4120034860
を読んでいる最中、頭に浮かんだのは、この烏賊の話だった。過剰な入力装置を装備して、処理が追いつかない人間がそれでもなお記録し読書し体験し、それを人に見せるネットに感想を書く、生きていることを表現するのは何故なのか。通過していく情報量に対し、烏賊である自分自身の質と量は、海を無目的に漂って飯食って交尾して(烏賊って交尾するの?)くらい軽いので、情報と情報の中継地点としての『相対的な場所』しか確保できないから、その場所にしがみついていないとどこかへ流されてしまいそうそれが不安。

不安を解消するために現代人がとった(とりうる/とるであろう)行動と反応が、小説ではグロテスクに反復/シミュレートされる。ひきこもり→心中の連鎖→社会不安→通り魔の横行、そして『自分の力で自衛することこそ、生きるという価値である』というマッチョな思想が社会を痺れさせたとき、真っ向から反論した主人公もまた、理性的であらねばならぬという人間観に疑問を持ち続ける。
人の真似をせずに自分らしく生きようという最後の希望もまた、その呼びかけを聞いたとたんに人真似になってしまうという袋小路で、空虚な入れ物でしかない烏賊たる人間は、その眼球の内側、自分の内部のようでいてしかし実のところ、どこか真っ暗な、すべての世界の情報が吸い込まれていく暗闇に向かい合うことで、ようやく皮一枚自分自身に踏みとどまれる。

焼いて喰ったら旨いからまあイーカなどと如何にもな言葉の異化(駄洒落)など書いててはイカンと遺憾。

※おまけ;烏賊の交尾の図