乙一さんに聞こう

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これを言うと編集者の人たちは皆眉をひそめるんですけど、ぼくは、シナリオの書き方の本に沿って小説を書いているだけなんです。デビューしたあと、このまま次の作品が書けなかったら推薦してくださった栗本薫先生に迷惑がかかると思って、物語がどのようにつくられているのかを調べているとき、その本に行き当たったんです。別冊宝島の『シナリオ入門』ですね。

小説が書かれる上で寄り添ういくつかの約束事、日本語の特性であるとか、ジャンルの決まりであるとか、物語が良く物語られるための方策であるとか、そういうものを行儀よく守ると通常、作品自体は生気を失い退屈なものになりがちだが、乙一はそうならない。
あるいはジャズの達人のように、演奏技術に研鑽を積み重ね、ジャンルのクリシェを完璧にこなした上でそれを越境するときのような、はっとする瞬間が、平易でわかりやすい乙一の手つきの向こうに垣間見えるときがあって、それがいわゆる『せつない』などと言われる、読者の心をつかむ部分だろうがしかし、彼の場合は『技術を習得するための研鑽』を重ねることなく、『シナリオ入門』を読む事で、ひょいっとその瞬間をつかむレベルまで物語をつかんでしまった、そのことこそが彼を天才と読んでさしつかえない部分なのだろうと、改めて嘆息することしきり。

難しい言葉はぜんぜん知らなくてもいいです。むしろ、難しい言葉は避けて、普段日常的に使う言葉だけで書いたほうがいいと思います。ついこの前も絵本の仕事で、言葉の無意味さみたいなものを考えさせられました。「お父さんは不安そうに言った」みたいな文章を書いたのですが、はたして子どもが「不安」という言葉を理解できるだろうかと思って、「お父さんは顔を青くして震えながら言った」というふうに書き直したんです。でも、今度は、「顔を青くする」という表現の意味を子どもがわかってくれるだろうか、と考えてしまった(笑)。いろいろと試行錯誤しましたね。

物語を語る上での様々な決まり、ジャンルや言語や歴史に対して、やはり何がしかの試行錯誤のある小説を読むのが好きなのだと気付いた。もっといえば、小説に限らず映画であれ音楽であれ芸術一般は、その依って立つ歴史的/地理的な位置に対して自覚的でなければ価値がないのじゃないか。なぜなら芸術はひとりの人間が他の何の力も借りずに生み出せるものではないからで、ならば作品はその成果を世界に還元しなければならないのだから。

例えば『GOTH―リストカット事件』ISBN:4048733907、『モンスターもの』という決めごとを守り、『新本格』の系譜に連なるトリックを駆使して、排除したはずの感傷が終盤でいきなり溢れ出し、作品を覆う鎧のメタファーであるような主人公をも作品もろとも一瞬揺らがせるその隙間は、あらゆる外的要素から作品を照らし律し続ける厳しさなくてはとうてい生み出すことができないものであり、それがあるゆえ、この作品は傑作なのだ。