芥川賞候補、5作中3作が19歳と20歳の女性の作品

芥川賞候補に19、20歳の女性3人が入る 
http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/894794/8aH90ec-0-1.html

文芸評論家の富岡幸一郎さんは「3人の作品の底には共通して、人と人とのつながりを取り戻したいという切実な思いが流れている。作品の主人公は三者三様に、現実に違和感を抱き、傷つきながらも心の回復を求めている。その背景には孤独、疎外、イジメ、暴力などがまん延する現代社会の矛盾がのぞいている」と説明する。


石原知事:
「物足りないね」芥川賞の女性3候補作に
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200401/10/20040110k0000m040055000c.html

『若い女性たちらしい小説だけども、三つとも物足りないね。肝心なものが欠けている』

たまさか笙野頼子『水晶内制度』ISBN:4103976047きに知ったので、小説内で恨みたっぷりに?批判される『日本における女流作家の扱われ方』に対比してガハハと笑ってしまった。曰く

p103

 女の作家はそもそも近代の日本語の文章構造から殆ど排斥されていた。自分達の事を語ろうとしたり自分の物の見方を語ろうとしてもどこかで男の気に入るような書き方をせざるを得なかったり、従来の日本語を使っていては狂気のようにしか見えなかったりという疎外のされ方をしたからで、また真面目にものを書いても全部エロ関係かヒステリー関係の意味を押しつけられ、それも男に都合のいいエロ・ヒステリーの解釈をされた。

p104

 その上女の作家のかわりに文壇に導入されたのは女性の意見を代弁すると称して女の感性を商品にするためにだけ調査して振りかざすロリコンライターだの、「文学は終わった」という立派な学説に奉仕している男性的な女学者だけであった。つまりそこにいる女をだまらせておくためにだけ作家女以外のどんなくだらないものにでも喋らせてみるのだった。
 また女の文学の可能性に気付いたふりをした男の評論家は「これからは少女マンガが文学だ」という女イコール商品的な視点のすり替えをした。しかし少女マンガの中に押し込められていたものや少女にしか許されなかった女の隠れた面が文学の素材になっていくだけの事なのにそれを当代の売れる文化に限定するのだった。このようにして、様々なしかも無自覚で馴れ合い的なだらしない手を使い、才能のない付き合いのいい、にこにこ笑う袋小路な男の手で新しい文学は葬られたのだ。

芥川賞が商業化・形骸化するなかで『女イコール商品的な視点のすり替え』すなわち商品価値として彼女達の作品が徴用される、その一方でその文学の価値については通り一遍な解釈で一緒くたに型に嵌められ、その独自性については顧みられる事もない。

ましてや小説の主人公である『ブスでばばあの女流作家』であれば、

p189
自分は日本ではブスとしてばばあとしてヒステリーの「女流作家」として黙殺され無視され、文学の論文や理論的な発言はすべてなかった事にされ、一定レベルに達した発言も女の言うことと無視されるような目にさんざんあって来た

のだそうだ。

さて小説は作家のみならず、日本の歴史上無視され続け、差別され続け、労働や排泄や性欲の処理、ケガレを押しつけられてきた女達、今でも「OL」「女子高生」「主婦」「売春婦」といった蔑称を与えられ続ける女達が、日本で最も無いものとして無視され続けているケガレモノ、『原発』を抱え込む事と引き換えに独立国家を打ち立てるお話である。

とはいえ、フェミニズム的な正義感や清潔感とは無縁なのがこの国家なので、

p18

もしも女が人間になろうとすれば、男女手をたずさえなどと言っているより女尊男卑の方がてっとりばやいのです。女がもし人間であろうとすればまず男を見えなくし、消費し、まったくいない存在にしてしまう事が必要と結論したのでした。

こうして、日本が『面倒な事は全部女に押しつけ』てくることを逆手に外交を有利に運び、自国内においては思想矯正した男性を牧場で飼い、対外的にはロリコン・ポルノを主要な輸出産業として、忌み嫌われながらも『日本の男のするように』無責任で自堕落な、『きったないフェミニスト』国家となっていく、そして主人公の作家は、その国民の為に、日本の神話を曲解・翻案し、新たな『ウラミズモ神話』を創作してゆく。

こう書くと、ルサンチマンに根ざした諧謔・ユーモア小説のようだし、実際、先に引用したような、特に日本の文壇に向けた糾弾の数々は壮快なのだけれど、まるでやおい小説のような低俗かつロマンチックかつ使い出のある神話が完成に近づき、国家の体制が確立するにつれ、作家の悲しみ、つねに違和感と疎外感をもたらすなにか醜いものが、文壇であれ性愛の場であれ政治であれ、そこに常にたち現れ、その醜さが自分にも(誰にも?)偏在するのだという、強烈な毒を放つ物語に変容してくる。

『男が嫌いになると男が嫌うようなものに関心が向いた』作家は、いわゆる『美少年もの』を溺愛する。そして『やおい』という『きったない』刃をもって、純文学を切り開こうとしたとき、疎外と無視によって外部から傷つけられるのみならず、みずから刃の毒にあてられたのだ。

いや、女でなくとも、人が人間であるために、無視と疎外と拮抗するために、人は毒のある神話を持たねばならないのだ。その悲しみは時に人を醜く(見にくく)するが、どんなに稚拙と笑われようが、その神話は自分だけのものである。

古来よりこの国に伝わる無責任と自堕落の神話によりかかりながら、自らの責任を棚にあげて『今日びのこの国は』などと嘆いてみせる小説が売れているようだが、そんな日本の内部に、過激で手作りでオリジナルな神話を掲げながら、遥か未来に国を作らんと孤軍奮闘する笙野頼子は尊いと思う。

(※ちなみに、この小説は新興宗教のパロディでもある。女教祖が一団を引き連れながら、東海村とおぼしき『常陸地方』に流れ着く様は、例の白装束集団が、原発銀座である『敦賀』へケガレとして幽閉されているさまと不気味に一致する。偶然とは思うが、教祖が自らを『ケガレを引き受ける女』として神格化するのは新興宗教ではよくある教義なのだろうか?)