原監督辞任会見時の渡辺オーナーの服装

少々旧聞に属するが、原監督辞任会見時の渡辺オーナーは、なんともいえない嫌なオーラを醸し出していたのだったが、その一因に、彼の背広の前をはだけ、腹を突き出したあの服装があると思っている。

どうして日本の中高年サラリーマン諸氏は、スーツの前をはだけたまま人前に出られるのだろう。
道を歩いていても、行き交う背広姿の男性の半数以上が、上着の前ボタンをしめずに、だらしなく裾をひらひらさせている。なかにはダブルのスーツなのにボタンをしめていないので、四角い裾が体の前で扉のように開閉しているオヤジまでいる。
前が開いているので、中のシャツが脇で膨らんだりはみ出したり、ベルトがズボンの上までせりあがっているのが見えるのがまただらしなさを強調するのだが、最悪なのがネクタイが長すぎることだ。
ネクタイというのはそもそも結び目が襟元から見えるその一点に意匠を凝らすものなのに、でれーんと伸びた一端が股にまで届く一方、短いほうが捲れあがって胸ポケットのわきあたりにぷらんぷらんしているのは醜悪以外の何モノでもない。
ニール・ジョーダン監督の『マイケル・コリンズ』という革命の闘士を主人公にした映画があって、この主人公がしょっちゅう寝込みを政府に襲われて、命からがら逃げ出すというシーンがあるのだけれど、このときでもちゃんと彼らイギリス人は、ネクタイと上着だけは身につけて逃げ出すので、感心したことがある。
逆に、ローワン・アトキンソンの『ミスター・ビーン』が、常に背広の前をはだけ、ネクタイを異様に長くしめているのは、あれは馬鹿の記号的表現なのだ。
つまりイギリスの男にとって、ネクタイとは男性性の象徴なんですね。
だらしなく人前にネクタイを晒すという行為は、ズボンの前をおっぴろげてペニスをはみ出させて道を歩くのと同じことなのである。
となると渡辺オーナーを初めとする、スーツの前をはだけ、だらしなくネクタイをぶらぶらさせて道を闊歩する人々に対する嫌悪感とはすなわち、だらしのない男性性を無自覚無反省無遠慮にさらけ出し撒き散らすことが、あいもかわらず良しとされる日本の社会風土に対する嫌悪感に他ならないのであった。