バトル・ロワイアルIIのペア首輪

BRIIの新ルールはタッグマッチ制で、男女同じ出席番号の生徒の首輪が連動し、片一方が死ねと爆発して、もう一方も死んじゃう連座制
映画ではその効果がイマイチ描かれて無いのが残念だけど、これはなかなか面白いアイデアだといろいろ妄想した。

たとえば、全国の中学校の生徒全員に、この首輪をつける。で、同じ出席番号の相方が、非行や性犯罪に走ったりすると爆発すると言う仕掛けにしたらどうなるか。
まず自分の首輪が爆発したら当然大変なので、すごく相方のことを気にかける。非行の芽がないか常に観察し、学業の遅れやイジメのシグナルを見落とさない様、気を配る。性衝動ももちろん、お互いに受け止めあわなければならないから、性教育は万全。こうしてお互いを意識しあううちに、自分の非行が相手の爆発に繋がると言う“思い遣り”が生まれ、ここに到ってようやく相手に対する『責任』を実感することができるかもしれない。

下らぬ妄想はともあれ、要は『責任』という言葉を簡単に口にしていいのかな、と思ったのである。
『親は責任をとって打ち首云々』という発言の危険は、『犯罪者の親』という、どうしたって言い逃れのしようのない、絶対的に『悪い』立場の人を、正義の名の元に、絶対安全な立場から攻撃するという、極めて『無責任』なその姿勢にあるのであって、更に言えばその『無責任』で『絶対安全』な暴力とはつまり、『イジメ』なのであり、今度の事件の温床に他ならない、ということなのだ。

では『責任』とは何かと言えば、それは互いに、出方を間違うと爆発しかねない『首輪』を締めあった仲と思うと分りやすいのではないだろうか。

例えば『会社』を例にとると、『会社』は『社員』に給料を出さないと死んでしまうし、『社員』は仕事でへまをすると『会社』を潰してしまう。その緊張感があるからこそ、そこに責任が生じる。

『親』は『子』に、飯を食わせなければ死んでしまうし、『子』は犯罪ひとつで『親』を潰すことができる。

『首輪』が更にメタファーとして優れているのは、締めあう相手が、高々、出席番号によって決められると言う軽さだ。

そもそも、親子・兄弟・クラスメート・同僚、人間関係などは偶々その相手であったに過ぎない者同士が、仕方なく組み合わされた仮の徒党に過ぎないのであって、それを『愛情』だの『友愛』だの言った美辞麗句で飾ろうとするからいけない。

お互いに、相手をより好みできない状況で、ペアの首輪を絞められてしまったので仕方なく、相方になっているんだよということを認識して然る後に、でも互いに死なない為に生きるのだよと言う決意をしないと、本当の責任は見えてこない。
親子だって同じことで、必要なのは愛情では無く(!)互いに長生きするための打算と観察と戦略なのではないだろうか。

良く昔の親は、『お前は橋の下で拾った子だ』と子供を突き放したが、案外あれは本音で、『別にお前が私の子で無くても良かった』という了解の元、それでもまあ、ウチに来たからには飯くらいは食わせてやろうという距離感が、少なくとも子供が子供である社会性を、子供の中に生じさせる効用があったのではと思う。