長崎児童殺害事件

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きつい。こういう事件からは眼や耳をそらしたいのにそれができない。少年事件の原因とか社会的な背景とか、両親の苦悩とか考えたところで何ができるでなし何がわかるでなし嫌な気分だけが残される。

この事件が報道される意味はどこにあるのだろうか。社会に解きがたい問いと厭世的で虚無な気分と、模倣犯罪の種をまき散らしているだけではないのか。

唐突に引用したい。7月7日、東京新聞『言いたい放談』での崔洋一の文章である。崔が、とあるテレビドキュメンタリーの賞の審査員を引き受けた際、あまりに感情的な『拉致問題』を扱った番組が多かったことに困惑する。70年代と言う時代背景等の冷静な分析の不在と、『冒険主義の危険な独裁者とその国家の「テロ」』という一様な切り口に疑問を唱えつつ、それら番組の演出家・製作者との会話をこう記している。

選考と講評が終わり、実際に番組作りをした演出家や製作者と話す機会があった。番組の骨は?と問うと「怒り」と明確な解答。それは、どこから生まれたか、とさらに問うと、何となく気まずい空気なのである。「時代の気分?」とたたみかけると、会話が一瞬途切れた。その顔には、一線並びであっても、現在を体現しなければならないテレビマンの苦渋のようなものがあった。

報道は時代の気分を形作り、また時代の気分に強く影響される。
そのことを報道にたずさわる人には強く自覚して欲しいと切に願う。

中井英夫の『虚無への供物』のように、時代の気分こそが諸悪の根源だなどとは思わないが、少なくともその気分に抗う言葉を私はマスメディアには期待したいのだ。