月並みの会

みなさまごくろうさま。
『今度の戦争は、英語と他言語の国が対立してる(鋭)』

JMMでの冷泉彰彦村上龍との座談会メールで、アメリカやアジアの国々の人たちと、通じあえる言葉の必要性が指摘されていた。
たとえば『自由』という言葉とか、近代化の過程で作られた曖昧な日本語を疑ってかかること。


※上記対談がサイトにアップされていないため、メルマガより「対談後記」を引用します。

「最後通告の48時間という期間」に、村上さんとお会いしてイラク問題と日本語の問題を中心に議論ができたのは、全く偶然とは思えない。このイラク戦争こそ、日本社会にとって、そして日本語を話す人々にとって冷戦思考やバブルの遺産からの脱却を迫るものだからだ。グローバル・スタンダードなどというものが雲散霧消し、自分たちに合った長期展望と戦略を、自分たちの手で合理的に描かねばならなくなった以上、改めて、日本語と向き合い、必要な表現を足してゆかねばならないのだ。政治や反戦の言葉なども全て見直すべきなのだろう。

短い滞在ではあったが、この時期に東京という不思議な街で、多くの人々と旧交を暖め、自分として充電ができたのは貴重だった。そんなことを先週号に書いたのは、それは分裂と自壊に苦しむアメリカ社会と比べると、日本の社会や文化には希望を感ずるからだ。声高なスローガンではなく、目に見える事実と向かい合いながら、庶民が一人ひとりの生活を守っている、その知恵の深さとでも言ったら良いのだろうか。ただ、その知恵が社会を動かしてゆくには、日本語が世の中に追いつくことが必要なのだが。

帰途、乗り継ぎのために立ち寄ったシカゴ=オヘア空港では、つい10日前にはポツポツ見られた星条旗がほとんど撤去されていた。ここは、ユナイテッド航空アメリカン航空の拠点だ。911で多くの犠牲を払いながら、連邦政府に救済を拒否され、今回の戦争での乗客離れで会社の存続自体が危ぶまれる、そんな中でシカゴのハブ空港に働く人々は星条旗を信じなくなっているのかもしれない。

セキュリティ検査に手間取りながら、ニュージャージーに帰りついて、保安上の理由から空港の遠くに追いやられた駐車場から車を出し、地元のFMを聞いた。番組は異常な雰囲気だった。週末の戦局を受けてキャスターが絶叫していたのだ。米兵が捕虜になったり戦死した、というニュースがこれほど感情的に受け止められているのか、と改めて驚いた。

「子供さんを湾岸に出している家族の心情を皆で支えよう」という絶叫があり、「反対運動も分かる。でも死んだ人にムチ打つことはできないよ。みんなどう考えるかい?」という問い掛けの絶叫もあった。だが、そこにはイラクの庶民の人命の話は全く出て来ない。その一方で、月曜日の株価は戦局を悲観して暴落している。

ディベート文化や、プレゼン文化など英語が世界の標準だとか、意思決定に便利な言葉だとか言われ続けてきた。だが、背後の価値観が揺らげば、その英語も機能しなくなっているのだ。対立点を明らかにし、合理的な結論を得るために全員が能力の限りをつくして事実と向かい合う、その態度が失われたら、言葉は何の力も発揮できないのだ。

アメリカというお手本が崩壊を始めたからと言って、日本の近代化を止めて開発独裁の密室政治へ戻ったり、ナショナリズムの情念を暴走させてはダメだ。むしろ、日本社会や日本語にこそ、合理性という希望を託してゆかねばならないのだろう。

そのような日本語や日本文化への希望や期待は日本に住む人々だけのものではない。『千と千尋』の授賞はそんな期待感の現れと見るべきだろう。善悪に安易な区別をつけて大声と暴力に訴える文化では「ない」ものを、アメリカにも渇望している人々が沢山いるのだ。

その意味で、イラク戦争は、日米関係を全面的に見直すきっかけにもなるのではないだろうか。相互を軽蔑し合う勢力の打算ではなく、相互を尊敬し合うグループによる生産的な関係へ。自身を誇る者同士ではなく、自身を疑う者同士の冷静な関係へ。大きな歴史の転機がやってきた。